2007年4月22日
分かれ目
中学生の頃、芥川が好きだと言うと、それなら太宰も好きでしょう? とよく言われた。しかし、僕は太宰が嫌いだった。あの頃は、理由を上手く言い表せなくて「田舎者のダサさが嫌い」と言っていたのだけど、本当のところは、洗練を装った作品のボロが隠しきれておらず、その後ろにいるしたり顔の太宰が見え見えなのが嫌だった。つまり、作品に真剣さが感じられず、読者に「な? 俺っていい作品書くだろ?」という臭いが充満しているように感じたから嫌いだった訳だ。
こういっても、わかってもらえることは少ない。だから、「少女的」なものは好きだが、いわゆる「萌え」的な少女のイラストやフィギュアや、10歳前後の少女にセミヌードまがいのことをさせる写真集などには吐き気を催す、純粋な「ゴス」とは近い立ち位置にいると感じているが、ファッションとしての「ゴス」、もしくは「ゴスロリ」には絶対的に相容れないといっても、わかってもらえない。何が違うのかと言えば、趣味性の有無、純粋さの違いとでも言うべきか。どれも、後者には商業的な意図が見えるのだ。趣味としての追求ではなく、儲けを得るために、それを求める層に最もフィットする要素を盛り込むいう態度に嫌悪し、それに喜んでいる連中には白い目を向ける。
いわゆるファンが求めるものをちりばめただけで、なんの先進性、オリジナリティもない虚飾とでもいうものは嫌いだし、著作権という利権にしがみつき続けるために物語を台無しにしてしまうものや、とても特異性を認められない文章について盗作を訴えるような漫画家にも反吐が出る。
え? この文章で何が言いたいかって? 要約すれば次の一言です。
あんたたちとは一緒にして欲しくないんだよ。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月22日 00:22
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コメント
同感です。
異論はありません。
個人的意見はありますが。ここで文章として残す物ではないと思います。
>あんたたちとは一緒にして欲しくないんだよ。
私はそういう人種を「俗物」と思って区別しています。
まあ自分も秋葉原に行くだけで「アキバ系」といわれ、「メイド喫茶に行くの」といわれたら「行きません」と何度、返答したことか・・・・
ただ、科学関係の仕事をしているとこういう議論は、ちっぽけなことだと思ってしまうのも事実ですが。
なにせ工学部出身だからといって必ずしも機械に詳しいとは限らないのですから。
ちなみに、趣味の世界において、こういう「分かれ目」について「主観の相違」という言葉で片付けるということを学生時代に議論し、結論づけた事を覚えております。
言葉足らずの文章ですいません。
投稿者 s.pixy : 2007年4月22日 09:31
このような攻撃的な文章にコメントをいただきありがとうございます。「そんなこと言わなくても」と仰る方がいるだろうことは感じておりましたが、ハッキリ表明しておいた方が誠実だと思った次第です。
次に、私は何かで「片付ける」のが嫌いなのです。s.pixyさんの仰る「結論」とは異なるのかもしれませんが、大抵の場合「それは定説」とか「これが結論」というのは、それまでの思考をせき止めて、実際的に辿り着くのではなく、単に思考を停止させて決まり文句に逃げ込むように思えるからなのです。友人でそういう語法を使用したがる奴がいて、その度に「川の流れを止めれば、淀み、濁り、最終的には全てが死に絶える」と反論しておりました。
最後に主観の件ですが、私はある人のオーディオシステムを聴かせていただくのは、その人の主観を覗かせていただくことに近接していると思っています。その主観への自分の主観をもとにコメントをするという行為を予め想定しての試聴の場合、楽しいというよりも苦しいことが多く、試聴というよりも決闘に近いという気がしています。決闘においては、相手の主観への敬意が存在します。それ故に決闘の結果というのは、いつも有益でした。例え、自分の主観と全く異なっていても、納得できる点、もしくは相手の主観の美点を気がつかせてくれ、自らの主観を見つめ直すきっかけとなってくれるからです。もちろんこれはオーディオに限った話ではないのですけども。
そして、そのような主観というのは、様々な試行錯誤と、自らの嗜好への問いかけによって生まれて行くものであって、誰かの意図にのせられた結果や、学習ではない単なる模倣によって生まれるものではないと思います。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月22日 11:57
僕の場合、お前もそうだと思われ始めると、実際は違っても開き直る性質です(^^;
例)お前、ホ○だろ。
バレた?バレたところで今度、尻(ry
投稿者 ahtoh : 2007年4月22日 21:47
譲れない一線ってやつもございましてね。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月22日 22:24
ドガは好きですが、バルチュス苦手です。
理解できるところは盛り上げ、理解できないところは流す体質です。(^^;
他の人に聴いて貰うのは、リスニング環境でも自作アンプでも自分の曲でも、関わっている部分が大きいだけ緊張の度合いも大きくなりますね。(−−;
投稿者 rabbitmoon : 2007年4月22日 23:30
私はドガはどうも観ていてうずくものがないですね。バルテュスは観ていて悶々とするものが(こんなこと言ってるから変態扱いされるんだ)。
そうですね、政治の話題なんかは、ゲーム不参加なので流すんですが、どうしても流せない部分というのはもっておりまして、まだ尖った部分があるってことなんでしょうね。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月23日 00:01
こういうのを読むと、自分が言われたのか〜('A`)
って不安になり、へこむ性格です(笑)
投稿者 うぃん : 2007年4月23日 00:24
君がへこむ必要はないがな。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月23日 00:38
メイドって、マスコミが流行らせたんでしょうかね
女子高生は、マスコミだったと想いますけれど
秋葉原が良い街だと知るまでに、ずいぶん時間かかりました
PC自作とオーディオを知るまでは、よくわからない怪しい街でしたからね
すだれ屋、煙草屋などなど、関係無いと想われがちなお店でも、素晴らしいものが置いてたり
偏見で終わらすには、勿体無い街です
投稿者 涼風 : 2007年4月23日 11:12
街自体の由来を考えると、ある意味避難区域みたいなノリがありますね。<秋葉原
その避難してくる人がどのような人たちなのかによって、その時々のカラーが変わっていくのかもしれません。
ちなみに僕は秋葉原よりも須田町、神保町が好きです。
メイドですか......昔でいうところのノーパン喫茶を「萌え」の文脈で解釈しなおしたものといえるのかもしれないですね。その意味で風俗営業なのでしょう。休日のJR秋葉原駅前はひどい状況なので、目的地には御茶ノ水からいくか、昭和通りをつかって北上してから向かうかしています。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月23日 19:54
少女愛好に関しては、ルイス・キャロルや澁澤龍彦などから入ると、どうしても、ゴスロリファッションとかは違和感在りますよね。あれはGOTH志向というよりコスプレの一種だと思います。
戯れに、アキバ系のエロサイトを覗くことはありますが、全体的に媚びてる感じがして苛々しますね。アイコンとして機能しているだけで、本質的なものが欠落しているんじゃないですか?
商業的なロリコン主義やキッディ・ポルノの隆盛は、清算出来ない思春期の亡霊に取り付かれてる所為だとしても、詩的なニンフェットの世界とはあまり関係無い気がします。
ただ、意図的な商業性ばかりでないというか、清潔なファンタジーと不潔なリビドーを都合よく中和しようとする潜在意識が働いているような気もします。
個人的には、割り切れない欲望を抱えていた孤独な宮崎勤に同情する方が楽ですね。彼と一緒にされるのはもっと困るでしょうが、本物の変態の方が或る意味、「純粋なゴス」に近い気がします。……いっそのこと、「ドラコニア」で通したらどうでしょう(笑
あと、シュヴァンクマイエルの『オテサーネク』に出てくるペドフィリアの爺さんとかは結構好きです(笑
投稿者 イド : 2007年4月23日 21:55
趣味とはすべからく狂気というコアを内包していると思うRIKですこんばんわ、
スッカラカンのコアに幾ら着飾ったドレスを与えても空虚なものにしかならねーなーとは。
主観とオーディオの件に関しては同感ですのぅ、
対象が経験から基準を作り、その基準をもって選んだ音を聴く、
その音を聴いたとき、ただ良い・悪いで終わるのか、
「何故そうのか?」という思考を持って基準へとディスアセンブルするのか、
同じ聴くという行為でもまるっきり違う物になるなーと、
後者のほうは本気で疲れますのぅ、
先日も野郎二人で六時近く無言で音楽を聴くという行為を行ったんですが、
精神磨り減ってきっついわぁ('A`)
…基準の出来て無い人の音もデタラメでかなりきついものがありますが(苦笑
投稿者 RIK : 2007年4月23日 23:38
自分も神保町やお茶の水の方が秋葉原より好きです。
ただ、あの町は自分の過去、人生において貴重な出会いと別れが多かったので、買い物以外では長く留まらないように気をつけております。
>「川の流れを止めれば、淀み、濁り、最終的には全てが死に絶える」
たぶん自分も理想としてはこうありたいのですが、理系という道を選んでから、何かに結論を出さないと前に進めない人間になってしまったような気がします。
また、「おたく的思考回路」を持つと物事を平面的にしか頭が回らなくなる気がします。
ちなみに、自分がオーディオにふれるときは、「おたく的思考回路」を切り捨て、「感性」で行動するようにしております。
投稿者 s.pixy : 2007年4月24日 00:49
>イドさん
以前、山本じんさんのことを書いたときや球体関節人形考という文章を書いたときに、今時の女性人形作家が作る作品の媚みたいなものについてちょっと触れたことがあります。私はバルテュスやベルメールの作品に、なにか、こちらからは手が届かないところにある秘密の営為のようなものを感じます。それをもっと過剰にしていくとモリニエになるのでしょうかね。
さて、その地点からみると、今時な球体関節人形にせよ、秋葉原のメイドにせよ、アニメにせよ、何かしらの利益(金銭とは限らない)のために対象者を誘う手段としての擬態のように思えますね。僕としてはやはり、手が届かない、もしくはこちらの意思とはかかわりなく何かを追求している、もしくは楽しんでいるようなものに惹かれるところがあります。この興味の持ち方を澁澤氏の専売特許と表現するにはどうも躊躇がありますな。
で、宮崎氏の件なのですが、彼は家族の中で、元々病弱であったがゆえに父権的な、そして体面を守りたがる父親によって存在しないことにされており、それゆえの特権の中だけで生きていたのだと思うのですが、彼はファンタジーの中に生きていたとはちょっと思えない節があります。それにしては狡猾過ぎるというか、飛躍が足りず結局現実からの浮遊感がないというか。それが彼の妄想力の限界に起因するのか、それとも趣味性に根ざすのかはわかりかねるのですけれども。
>RIKさん
アドルフ・ヴェルフリの作品やシュヴァルの理想宮をみると、狂気というコアが巨大だった人間の凄まじさを感じます。オーディオ関係でも、狂気が表に出てしまっている人もいますが、彼ら二人に比べてしまうと、やはりみみっちい程度に思えてしまいます。
主観と主観のぶつかり合いですわな。でも、外見上は静か。そう......昔の剣豪小説によく出てくる互いにできると感じつつ恐ろしい緊張感を秘めながらすれ違う武士同士のような......と美化してみたり(笑)。でも、そのぶつかり合いの後には、その決闘を括弧に入れて互いに音楽を楽しむ時間もないといけませんな。そうしないと本気で狂気に見舞われそうですわ。
基準のできてない音は、街にあふれているような気がします。始終音を垂れ流し続ける店舗だらけですから。
>s.pixyさん
私にとっても思い出の街なんですよ。出会いも別れもいろいろありましたね。あの頃は背中の中ほどに届く長髪だったなぁ。懐かしい&恥ずかしい。
>「おたく的思考回路」を持つと物事を平面的にしか頭が回らなくなる
これは興味深いですね。秋葉原のゲームセンターでバイトしていたときに思ったことと共通する部分を感じました。オタク的なアイテムにおいては、それを求める人が何か区別のようなものがないままに、それに類するものを収集というよりも回収していくんですよ、お金の続く限り。あの姿は僕には不思議に思えたものでした。そうするように強いている側がいるということなんでしょうけどね。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月24日 20:59
「ドラコニア」ってのは、ジョーク半分で言ったんですけど(苦笑
でも、昭和のアングラ文化であの人の存在はやっぱり大きい気がしますね。で、ファッション化されてる「ゴス」に違和感覚えるのは、アングラ的な文脈で息づいていたものが、大手を振るって歩いているのに由来するのかなと。
ハンス・ベルメールの人形が秋葉原の表通りを埋め尽くしていたら、それはそれで妖しいですよ。店内血みどろの「赤テント喫茶」とかね(笑
宮崎勤は、寧ろ歪んだ妄想に取り憑かれていたのであって、その空想は、今、「萌え」で呼ばれているようなオタクカルチャーの青臭いファンタジーとは異質なものだと思うんですよ。ねずみ人間の絵とかキャッチーな志向からは程遠いし、秋葉原の表通りに飾られているようなライトな感じが全然ない。
宮崎の事件をきっかけに「オタク」って言葉が世間に浸透しましたけど、あの当時でも本物の猟奇性を持っている人間は少なかった筈です。で、コンプレックス抱えた連中が世間と折り合いをつける為にルサンチマンを犠牲にしたのが「萌え」で、本当に陰湿なのは鬼畜な方向でマイノリティに留まっている印象があります。ネットで探してみると、変態志向の強そうなエロゲーが結構ありますよ(笑
でも、どうせなら「アリス・イン・ナイトメア」くらいぶっこわれた世界を造ってほしいです。
投稿者 イド : 2007年4月25日 20:47
宮崎勤氏の行動は、妄想とかではなくて、性的不能感の問題だと思ってるんですよ。だから、あのように卑小な行動でしかなかったのではないかと思うんですね。やっぱり、セックスを妄想で突き抜けてくれるぐらいになってないと、上述のヴェルフリやシュヴァルのようにはなれないんじゃないですかね。また、裁判や面接での態度を見ていると全体としてアンドレイ・チカチーロに近いんじゃないかと思います。
で、オタクという言葉の件なのですが、たしかに宮崎氏によって定着したとは思うのですが、彼はオタクなり、萌えへの嗜好なりを体現しているのか? といわれると違う気がします。彼が向かった方向というのは、嗜好ではなく、全く方向性なくテレビをビデオに撮りためていて、それもそれに対する「萌え」への執着といったものもないのですね。
アリス・イン・ナイトメアはゲームでしたっけ? 精神科医の斎藤環氏がどこかの本で取り上げていたような。あれは何の本だったかなぁ。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月25日 21:19
勿論、宮崎は「萌え」オタクとは全然違うと思いますよ。当時のサブカル色が強い同人業界ですら浮いた存在だったんじゃないかと。あの事件で最も偏見を持たれた層は「オタク」と呼ばれた人達だと思いますし。
性的嗜好が少女に向けられたのは、ずっと空想の中にあったからじゃないかと、想像してました。可愛いという気持ちと殺したいという気持ちは不思議と並存しますし。勿論、黒川さんの指摘も頷けます。想像力が突き抜けていたら、宮崎駿になったでしょうし(笑
ビデオの録画内容に統一感が無いのは、そもそも大した意味は無かったんだと思ってます。なので、そこから嗜好を読み取ることは確かに出来ませんね。
まあ、事件の話読んだのが大分古いなので、もう一回調べたら意見変わるかもしれないです。
アリス・イン・ナイトメアはゲームですね。http://www.japan.ea.com/alice/main.html
「SIREN」の方が面白いですけど。
投稿者 イド : 2007年4月25日 22:33
宮崎氏は確か、特撮ヒーローに惹かれていたと記憶しているのですが、どういう訳か、それがホラーとアニメと少女を扱った作品への弾圧につながりましたね。あれは、元々存在した、その時代のモラルが、期に乗じた結果だったのでしょうね。結果として、いろいろと制限が生じた訳ですけれども、インターネットの普及はその制限を破壊したように感じられますね。
彼のビデオ録画というのは、録画すること自体に意味があったのだと思います。放送という一過性のものを保存するという行為自体に、彼のアイデンティティのどこかが引っかかったのでしょう。少女への嗜好は、テレビの映像と同様に抵抗しないものへの嗜好だったのかもしれません。意に添わせて、保存したかったでしょうね。でも、少女、というか子供というものは他者の意に添わないものだし、保存できるものでもないからこそ、子供たり得るので、宮崎氏の願いはどこまで言っても叶わないでしょうな。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月27日 22:24

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