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2007年4月23日

戯言

  • 以前、「『萌え』の構造」みたいなもののメモを書いたが、その続きみたいなもの。「粋」から「萌え」へといったところ。
    粋というものは、媚態、つまりセクシャルな意味合いを持つものであった。セクシャルなものというと、近代的なモラルの基準から公に発揮することは認められず、眉を顰められるもの、否定、もしくは隠匿されるものとなりえるわけだ。それでも、粋を一般のなかで生かし続けるには、そこに含まれるセクシャルな意味合いを隠す、もしくは捨てる必要がある。その結果、「粋」は、そこに元来含んでいた枯淡、渋さ、侘び寂びといった、セクシャルなものからは遠いものを強調する様態となり、その仕草を媚態とは受け取られなくなる。しかし、セクシャルな意味合いの感覚への需要は隠然と存在しており、その需要は非媚態と化した「粋」とは真逆にある「野暮」へと向かう。その結果として「野暮」は「萌え」として新たなる媚態に仕上げられた。
    とりあえず、メモとしてはこんなところか。

  • なぜ他者を殺してはいけないのか、という質問には、他者が君を殺そうとしたら、君は何も文句も反抗もせずに殺されるか? とベクトルの向きを変えてしまえば、大抵それで済む。他者を殺そうとする者は、自分が殺されることを常に意識していなくてはならない。それに耐えられないなら、誰かを殺すことなど願うべきでないとすればいい。それに対して、なぜ自殺をしてはならないのかという質問には窮することになる。既にベクトルが本人に向かっているわけで、立場を逆転させて、「友人が自殺したら悲しいだろ?」と言っても、実際にその痛みを味わうまで通用しない。この場合、一般的な回答としては二つある。

    • 死後の状況からそれを思いとどまらせようとする方法。君が死んだら誰々が悲しむという現実的なもの、もしくは自殺すると地獄に落ちて苦しむといった宗教的なものが代表的。

    • 生きていた方がよいと思わせようとする方法。大抵は自殺を思いとどまってなんらかの成功を成し遂げた人物だとかを取り上げることになる。これは架空の人物である場合もある。


    どちらの方法もあまり説得力を持たない。結局のところ身近な人物の死と、その喪失感を体験するのが最も効果的に思える。しかし、これが逆に自殺の原因になることもありえるため、決定的ともいえない。きっと、母親に部屋に遺棄されたにもかかわらず、生ゴミを食べてでも生きようとした幼児が、一体何を頼りにして、そこまでの生きようとする力を得たのかがわかれば、それが決定的なものになるかもしれない。その死を確かめに来た母親がドアを開けると、飛び出して抱きついてきたという話からするに、何かを、例えそれが間違った対象であろうとも、それを信じ続ける心がその力の理由であるように思える。

  • ただ単に楽しくってのはどうも苦手でね。ふざけるときもどこかに芯を持っていたいなぁと。

投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月23日 21:23

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コメント

殺人にせよ、自殺にせよ、実際にその衝動を強く抱えている人間にとっては、理屈や比喩的想像で納得させるのは難しいと思ってます。少なくとも、自分が傷つく覚悟も無しに、止めるというのは卑怯な気もしています。
僕は、状況次第では殺人を是認します。どこぞの独裁者が暗殺されたとしても、直接抑圧されていない人間に文句を言う資格は無いですし。間接的に大量殺戮に加担している事も否めません。
大抵の殺人は、冷静になれば思い留まることは少なくないですが、衝動はそのまま未消化で残ります。それは、それで昇華する方法もあります。絵を描くとか、小説を書くとか、学校を放火するとか。
道徳的基準の崩壊が暴力的な虚無主義に結びつくことはあっても、理屈自体に殺意が在る訳では無いと思います。逆に殺人が悪でないことを知っていても、タブーの意識が強い人は居ます。
ベクトルの反転という発想は、或る意味、すり替え可能だと思うので、僕は使う気がしません。「殺られたくないから、殺らない」は「殺られる前に殺ってしまえ」に転化する危険性があります。侵略戦争のプロバガンダでよく使われる手ですね。

虐め自殺が相次いで、無くそうとかケアしようとか言う発想ばかり目立ちますが、僕ならば「復讐しろ」と伝えます。憎しみを抱え込んで人生を駄目にするよりは、「打ん殴る」くらい大したことじゃありません。まあ、それでも孤立する子供はするんですけどね。

でも、何の拠り所も無く、希望が全て偽りに見える人は、恐ろしく孤独でしょうね。そういう人にとって、議論の一般化自体に抵抗を感じると思います。

投稿者 イド : 2007年4月23日 23:32

 まず、この文章では、このように質問してくる人を想定していますので、実際的にその行動を起こす衝動に囚われている人ではないですね。そのような人は、そんな質問してきませんから。
 では、このような質問をしていくのは、どのような人物かといえば、その時点において、何かしらの規範を自分の中で作成し始めた段階の人となります。そのような段階にある場合、基本的に自己中心性が高いので、その質問の対象を本人にしてしまうことが有効です。

 で、殺人を許可するかしないかという話ですが、上述の通りです。どこぞかの独裁者(これを北とするか米とするかは本人次第)を暗殺せんとするならば、自分の命を守り続けようなどという望みは捨てねばならないでしょう。その分、未来に何かを託していけるのかもしれませんけれどもね。

 で、いじめの件なのですが、これは難しいですね。「復讐しろ」はそれこそ、ベクトルの転換に他なりませんし、だからといって泣き寝入りしろとも言いえない。結局のところ、上述の自殺に対する返答と似たことしかいえないというのが関の山です。でも、誰か、もしくは何かを信じることができるのであれば、生きる意思だけは持てるかもしれないと思っています。そこらへんは「夜と霧」のフランクルあたりのことが浮かんだりもしますね。

投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月24日 21:10

自己規範もやり過ぎると潜在意識との接触が少なくなるの気がするので、柔らかい思考が欲しいですね。日本は概ね、この種の問題に神経質過ぎる気がしますね。文化的・時代的な背景もあるんでしょうが、中国の孔子なんかは人間の塩漬けが好物だったとか聞いたことがありますし、コロンビアなんか金払えばスナッフフィルム造ってくれるそうです。

>まず、この文章では、このように質問してくる人を想定していますので、実際的にその行動を起こす衝動に囚われている人ではないですね。そのような人は、そんな質問してきませんから。

そうなんですかね…暴力衝動を抱えている人でも、モラルやタブーに疑問符を投げかける人は居るような気がするんですが。僕自身はモラルの自律的獲得を追求していた時期はかなり情緒不安定でした。結果、寧ろニヒリズムに陥ったんですけど、かえって、殺人に興味が沸きましたし、死にロマンティックな憧憬を抱いたりしました。過去のことですけど。

説得や説諭の方法としてベクトルの転換を使う気はしませんが、「復讐しろ」はそういう抑止的なものというより、自然発生的な感情を容認する意味で使ったので構造的には違うと思うんですよ。
最近は、ニュースも沈静化してきたようですが、ちょっと前に小中学生の自殺が話題になりました。テレビ見ていないと分からないかもしれませんが、特番とかでコメンテイターが発言するのを聞いていると、どうも「やり返す」という発想が全然見えなくて、こいつら虐められた経験あるのかなと疑問に思ったんですよ。
「復讐」だとニュアンスが強くて語弊があるかもしれませんが、全くやり返さないというのは、泣き寝入りと同じな訳で、「やりかえしてはいけない」という空気があるだけで、疎外されてる人は苦痛を覚えます。僕も切れて喧嘩になると、まるで自分が悪者みたいに言われた経験があったので、屈辱や忍耐ばかりを強いるような発想にはどこか虫唾が走ります。
やりかえせない人間が自殺するのではないかと、反論されるかもしれませんが、純粋に悲しみだけとか憎しみだけといった人は居ないわけで、追い詰められたら、殺人と自殺なんて紙一重だと思ってます。
第一、自殺しないで堪えたとしても、傷は残りますし、後を引きます。そこで植えつけられた怨恨が、無関係な人間に向けられるくらいなら、その時、当事者にやりかえす方が良いんじゃないかと。少なくとも、戦争と違って、狭いコミュニティ内の喧嘩が破滅的な結果を招く可能性はそんなに無い筈です。それに虐めている方もそこで優越感を得ると将来碌なことにならない気がします。

「夜と霧」は感動しました。ただ、ナチスの収容所でフランクルのような人間愛を獲得した人は例外的だったんじゃないかとも思います。でなければ、パレスチナも今みたいに悲惨な状況に追い込まれなかったような気がします。

投稿者 イド : 2007年4月25日 22:03

 スナッフフィルムについては本サイトでも書いているのですが、いまだに客観的な証拠がないにもかかわらず、その存在が語られ続ける不思議なものの一つですよね。まあ、すでに書いていることなので、ここに書くまでもないでしょう。

 もちろん、衝動が強まって行く過程で質問をしてくることはあるでしょう。しかし、それを決意した状態では疑問もつ瞬間があるとしたら、その行動は実現しないでしょうね。疑問という言語的思考は行動の禁止、抑制に結びつきますから。逆に言うと、質問してくる段階であれば、まだ戻れるってことですが。

 次に、復讐、いじめの件ですが、こんなことを書くのは不本意なのですが、これに関するイドさんのコメントには、心情がこもりすぎているように思います。とうぜんながら、個人の意見には心情はこもるわけですが、それが非常に個人的なものですと、コメントを交換する意味が失われるように感じます。ですので、これについてはコメントを差し控えさせていただきます。

 少ないと思います。<フランクルのように感じられた人
 だから、生き残ることのできた人も少ないのでしょう。先日のアメリカでの乱射事件で身を挺して、生徒を救った教員もその少ない人々の一人だったのでしょうね。

投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月25日 23:37

スナッフフィルムの実在を巡る疑問点はまあ色々あるでしょうけどね。少なくとも、コロンビアの犯罪件数と殺人件数が多いのは確かだと思います。本当は、死生観の常識みたいなのが土地柄で違うと言いたかっただけで。これは例えば悪かったですね。

>衝動が強まって行く過程で質問をしてくることはあるでしょう。しかし、それを決意した状態では疑問もつ瞬間があるとしたら、その行動は実現しないでしょうね。

覚えがあります。理科室から塩酸を取り出して給食に混ぜようとしたことが一度だけ在りました。やらなくて良かったと思ってます。関係無い人間まで巻き込むところでしたから。

虐めの問題。個人的な調子が強かったですかね…?
僕の場合、かなり前のことなので抑えて書いつもりだったんですが、
……冷静に読み返すと言葉が荒いですね。
気分を害されたのでしたら、すいません。

ただ、僕の周りには少年時代に結構嫌がらせを受けたのが多くて、彼らは、概ねルサンチマンが強かったです。例外も勿論沢山居るでしょうし、個人差があるのは当然ですけど、トラウマから逃れられないようなのも居ます。周囲の人間が一方的な虐めを見過ごすのも珍しくは無いと思います。場合によっては、クラスの半数以上が嫌がらせに加わります。
もしも、体を張って助けてくれる味方が居なかったら、その子はどうすれば良いんでしょう?絶対にやり返せとか殺せとまでは言いませんけど、自殺まで追い詰められた子供は基本的に視野狭窄に陥ってるから、遥かに個人的で扱い難いと思います。
自殺系サイトの掲示板とか覗くと、取り付く島の無いコメントも多いので、僕には説得する言葉が見つからないんですよ。掛かったことがないので知らないんですが、精神科医の対処法が気になります。少なくとも、共同体の問題をプロザック飲まして済ませることは出来ないでしょうし。

勿論、こんなコメントで救えるとも思いませんけど。

虐めとは関係ないですけど、吉永嘉明さんの著書で『自殺されちゃった僕』は良かったです。ねこぢるや青山正明の親しい知り合いで、奥さんにまで自殺されてしまった方なんですけど、残された側の痛切な思いが分かります。

…多分、僕は思っている以上に破綻してて、押し付けがましいんでしょうね。気をつけます。

投稿者 イド : 2007年4月26日 21:01

 どうなんですかね? コロンビアが特別な訳でもないかなぁと思います。ただ単に、そうしないと生活できない人々が多くいるという状況があるということであって、土地柄の問題でもないと思います。きっと、戦後の日本だって犯罪件数、殺人の件数は多かったでしょうし。

> もしも、体を張って助けてくれる味方が居なかったら、その子はどうすれば良いんでしょう?

 いうまでもなく、私には答えをだせません。既にこの記事で述べた通り、大抵の励ましみたいなものは説得力がありませんから。医者が何か薬剤を出すのは対処療法であって、それがその状況を一時的にでも変えることができるからでしょう。肥満性の糖尿病への対処とかわりません。ある一定の病状の改善はありますが、いくら薬を処方しても、根本原因がなくならなければ、再発する訳ですよ。でも、その根本原因というのは医者がどうにかするものではなく、イドさんの仰る共同体へ変化をもたらすことの出来る立場の人々が行うことです。そこに「信じる」という感覚が生まれるかどうかが鍵になるとは思いますが、それをどうやって実現しうるのかという問題に答えるすべは私にはないです。

 ヴォーヴォワールだったと思うのですが、「死は暴力だ」と言ってましたね。親しい人の死は、自殺、他殺はもちろん、自然死であったとしても、残された側にも傷痕を残すものです。その傷痕を味わって、個々人の生死観が出来上がって行くのでしょうけども、そのときにはつらいですね。先日もつらかったです。

投稿者 黒川鍵司 : 2007年4月27日 22:39

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