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2007年5月16日
「新レコード演奏家論」感想
先日述べた「かなり攻撃的なもの」である。あくまで私個人の感想であることを最初におことわりする。この著作に好印象をもっている人を否定する気もないし、菅野沖彦氏のファンを愚弄するつもりもない。
これは「論」ではない。「論」とはある思考が、順序立てて説明され、ある体系をなしたものである。他者(読み手)に「論」を伝える場合、既に周知の事実、調査・実験の結果などを用いて、客観性をもたせ、その客観性に裏付けられた自説を展開して行く必要がある。これが正しく行われれば、例え対立する立場の他者に対しても、自説は秩序だった体系として伝わる。そして、優れた「論」は、ある程度の幅をもち、それに対立するものも包含し得る状態となる。
振り返って本書を読むと、まず客観性の低さが目につく。本書168ページには「取材で接した日本全国の241名の真摯な愛好家との出会いが絶好のフィールドテストとなった」とあるが、このテストの純粋なローデータは本書のどこにも掲載されておらず、また、このテストでの対面環境、質問内容などの情報もない。241名という数字のみがあるだけで、なんら客観性のある資料は示されていない。また、次のような記述も目立つ。
「私はある席で、オーディオはそのうち古美術や骨董趣味のような世界になると言った覚えがある」(16ページ)
「私の記憶では、多分、終戦後間もない頃ではなかったと思われる」(25ページ)
「私の勝手な推測だが」(86ページ)
記憶は本人に都合良く、それも無意識に改変されるし、まして単なる推論というものについては何も言うまでもない。「論」には客観的な事実が必要となるわけだが、上記三つの文からも伺えるように本書にはそのような視線はない。
独善性も目立つ。例えば順序だてた根拠を示さずに「2チャンネル・ステレオこそが、擬似的にもっとも単純な形で立体感を伝送する方式」(46ページ)としているし、「興味がない」という理由だけで電子楽器による音楽や、ライン録音を取り上げないとしている(19ページ、140ページ)。これらは、マルチチャンネルの愛好家や、電子楽器を使用した音楽を聴く側からの本書の内容について受ける反論を、小賢しく前もって封じようとしているようにも思える。当然だが、このような態度は「論」において認められるものではない。「論」であるならば、むしろ、このような「敵」をどのように自らの体系に組み込むかが問題となってくる。対立する立場にある読み手を、味方に引き込もうとすることが「論」を他者につたえる重要な意味でもある訳だから。
著者の独善性の根源は次ぎの文章に伺える。
「カントの言う音楽とは、通俗的で庶民的な音楽であったことが推測できるだろう。民謡や冠婚葬祭のために奏でられる踊りのための音楽のような......。だから、彼は音楽に悟性による秩序付けがないと考えたに違いない......。
彼が、せめてバッハの世俗カンタータの一曲でも聴いていたとすれば......あるいは、マタイ受難曲を聴いていたら......と思わずにはいられない。そして、それでもなお、音楽には悟性の秩序づけがないから芸術ではないと彼が言い張るとしたら」(87ページ)
ここに著者の態度が出ている。この文章を裏返せば筆者は「通俗的で庶民的な音楽」には芸術性がないと考えているのだ。このような態度については多少長くなるが伊福部昭の言葉をひいて説明する。
「なお、現代の音楽にあって、今までになかった他の一つの現象は、音楽がハイ・ブロウとロウ・ブロウの二つに画然と分離し、ミドル・ブロウを失ったことです。(中略)音楽は完全なハイ・ブロウとロウ・ブロウとに分かれ、民衆と音楽家が共に楽しみ得るミドル・ブロウの音楽が無くなったのです。街は、感傷と虚無と肉感しかない流行歌とジャズに支配され、一方現代の作家たちの演奏会は、民衆には全く共感のないいたずらに高踏的な作品でふさがれているのです。かつて、ヨハン・シトラウスのワルツは、その当初、多少の非難はあったにしても、貴族も、庶民も、また音楽家も、共にこれらから音楽的興味を汲み取ることができたのです。(中略)このような現象は、決して音楽に限ったわけではなく、他の芸術部門にもみられる否定し難い時代が持つ特色なのです。」 (「音楽入門」(全音楽譜出版社)136〜137ページ))
この文章の原文が書かれたのは昭和26年であるため、ジャズの取り扱いが現代とは異なっている。いまの時代にあわせるならば「流行歌とロック」であろうか。
さて、この文章に照らし合わせれば分かる通り、本書の著者は「ハイ・ブロウ」に属していることを声高に宣言していると言えるだろう。それゆえ「ロウ・ブロウ」に属するとされる電子楽器を利用した音楽、打ち込みなり、一般的なロックに対して無視、切り捨てを決め込んでいるわけである。この態度は、伊福部の著述通り、音楽だけに限られず、筆者のオーディオ機器評価にも発揮されている。
「本格オーディオと言える物はコンポーネン一揃い最低50万前後で、普通は100万円以上と考えた方がよい。」(156ページ)
そして、本書で最も欺瞞的と感じられるのが98ページから103ページに渡ってチェリビダッケの言葉(出典は明らかにされていない)までもひいて「ステージ音楽とレコード音楽は別物」としているにもかかわらず、114ページから116ページにおいて、視覚情報、周囲の雑音がなく、すばらしい音楽をたった一人で独占できるからレコードが優位だとしている点である。独立した別物であれば優劣は問えない。優劣を問うには、その二者を同一の評価軸に置く必要がある。同一軸に置かれえるとすれば、まったくの別物とすることはできない。それなら、私は「素晴らしいホールのインテリアは雰囲気を盛り上げてくれるが、それが安っぽかったりしたら......。あるいは趣味の悪いホール周囲の光景は見ないほうがましである」(115ページ )とする著者と、ホコリっぽい舞台装置がフラグスタートがうたい始めたとたん壮麗な風景に変わったとコラムで書いているドナルド・キーンのどちらが音楽に対しての感受性が優れているかを問いたいものだ。
以上、厳しいことしか書いていないが、本書には納得できる部分もないわけではない。しかし、「論」と銘打つには全く不足なのである。これが「菅野沖彦のオーディオ四方山話」だとか「菅野沖彦 録音と再生を語る」くらいの題名であったらならここまで文句を各必要はなかったろう。本書が「論」とされ、これを後ろだてとしてオーディオ論を語るようなことはされるべきではない。オーディオ芸術なるものが存在するとすれば、それに対する芸術論をおとしめる結果にしかならない。
最後になるが、私としては「オーディオ演奏家」などというものは存在しないと思うし、存在したとしても、それに属したくはない。私がなにか「家」をつけた名称を作り出せと言われれば、クラシックのコンサートに足繁く通う人でもであっても、ロックのライブ好きでも、ジャズ喫茶の常連でも、オーディオに凝っている人でも等しく「音楽愛好家」とするだろう。そして、その音楽愛好家がどのようであるべきか問いに対しては、上述の伊福部の著書から次の言葉を借りる。
「音楽の鑑賞にあっても、作曲家の場合と同様に自己の見識の確立のために戦いが必然的なものとなるのです。自己の思考を労さずに、大勢の流れるところ、すなわち時流についたのでは、決して真の途は発見できないものなのです。
ゲーテは『不遜な一面がなくては芸術家といわれぬ』と述べていますが、鑑賞することもまた立派な芸術であることを忘れたくないものです。」(「音楽入門」(全音楽譜出版社)155ページ))
投稿者 黒川鍵司 : 2007年5月16日 23:27
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コメント
お久し振りです!^^
お考えに強く賛同いたします!
アナログ再生長いことやってますと、「もしや自分はレコードを聴いているのではなく、レコードを演奏しているのでは?」 という錯覚に陥るんですよね。盤の外側と内側ではまるで条件が違うし、アームの高さで音がコロコロ変わるし、気温にも左右されるし・・・
で、ある日気付けば・・・音楽ではなく「音」ばかり追求する、ある意味「廃人」になってるんです。
故・五味康祐氏の言葉・・・「 将来、経済的に余裕が出来れば、装置はいくらでもグレードアップできる。だが青春は二度と帰らない。感性の鋭敏で繊細な若いうちに、いい音楽を聴く事がどれほど大事かを、自らに省みて言うのである。若い頃、私どもが聴いた再生音の物理特性などたかが知れていた。むしろひどいものだった。それでも汲みつくせぬ音楽の恩恵をぼくらはそんなレコードから享けてきた。今の人は、そういう意味では恵まれている。その恩恵にためらうこと無く浴することである。一枚でも多く、先ずいいレコードを聴くことだ。装置をいじるのは、レコードを聴き込んでからでも遅くは無い。むしろその後に装置を改良した方が、曲の良さがいっそう分かり、味わいが深まるだろう。その時には。コンポーネントにどんな部品を選ぶかは、私などの助言を待たずとも、あなた自身が決めることになるだろう。その時こそ、あなたの音が、あなたの教養が・・・あなたの部屋で鳴るだろう 」・・・僕の座右の銘です。受け売りで失礼いたしました。^^;
投稿者 エルモ : 2007年5月17日 22:57
ちょっと期待して読んだのですが、羊頭狗肉という感じでした。
五味氏の言葉は、確かによいですね。その通りと思いますし、余計な力みもないので、素直に受け入れられます。でも、やはり文学的な気がします。オーディオ再生というのは「論」ではなくて「文学」になじむ者なのかもしれないですね。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年5月18日 21:52
〜論という言い方は、個人の考え方の発露として、エッセイよりもそれを少し強く主張するニュアンスとしての〜論という言い方だと捉えたので、私の場合あまり抵抗はありませんでした。
レコード演奏家という言い方には、僕も違和感を感じました。オーディオファイルあるいは音楽愛好家の方がしっくりきます。楽器の演奏を趣味としている人が、自分の事を演奏家ですとは言いませんしね。何もそんな大そうな言い方しなくてもと・・・
強いて言えば、オーディオで音楽を聴かせる事を職業としている人・・・ベイシーの菅原さんを始めとしたジャズ喫茶の親父とかはレコード演奏家と言えるのかもと、思いますが。
オーディオ関係者の書いた本で一番好きなのはアキュの創業者の春日さんが書かれたエッセイが好きです。爽やかな読後感、オーディオを趣味とする事が嬉しくなります。
投稿者 ゴーヤ : 2007年5月20日 17:37
なんといいますか、新しい概念を発表するようなことを言っておきながら、上述のあやふやさというのがなんとも苛立ちました。ロマン派的であることを宣言している傍から、関数もどきを持ち出したりするのも馬鹿馬鹿しく思えたりもして。まあ、エッセイの寄せ集めなのでしょうから、一冊の本として読むとそのブレの幅が目立つということなんでしょう。だったら、もっとフランクなタイトルでいいじゃないかと思うのですよ。
それにしても「レコード演奏家」というのは大仰すぎる気がしますね。ジャズ喫茶のマスターでも、そんなこといわれたら首の辺りがむず痒くなるのではないかなぁ。
アキュフェーズの春日さんは先日お亡くなりになりましたね。あの会社のブレのなさを考えると、良いエッセイなんだろうなぁと思います。今度買ってみます。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年5月20日 21:26
こんにちは。
大変興味深く拝見させていただきました。私はこの本を一回読んで飽きてしまったのであまり深く突っ込みを入れる気もしませんが、普段のステレオサウンドでの彼の文章をほろ苦く思っていました。
黒川さんの論点の立脚するところは分かるつもりです。まあ、この本は「論」ではありません。彼の言う「レコード演奏家」は「レコード」と言う素材を持って芸術再生を行うと言う意味で「楽譜」をもとに「演奏を行う」通常の楽器の演奏家との比喩なのでしょう。彼は正確な再生より自分の主観を伴った再生を持って演奏家と呼びたいのだと思います。
しかしCDやレコードの再生が本来の芸術的な価値を操るにはテンポやニュアンスを自在に操れない限り無理でしょうね。
一つ裏にある背景を考えていただきたいの彼のメンタリティーの問題です。価値の高いものを自分で定義してそれに即するように自分の属性を規定するという考え方ですね。それはかれの今までのキャリアが(以下、問題が多々出そうなので自主規制。)
でも、本来こういう本はこういうものもあるのだなと笑い飛ばすべきものなのですが、こういう個人のサイトでないと彼の批判が出来ないのも問題ですね。
投稿者 moonriver : 2007年5月23日 17:55
いつもの癖でメモを取りつつ車内で読んだのですが、どんどん呆れていく自分がいました。いや、もちろん頷けるところもあるのですがね。でも、それが、例えば彼の言うところの趣味よさとか上品さと言う件も、あのリスニングルームの勘違いしたロココ調をみると全部瓦解するのですよね。なにか、もちろん音に関しては違うと思うのですが、ダブルバインド捕われたような人に感じられます。それゆえ「論」と名乗ってしまうのかなぁと。彼がどういう経歴なのかはよく知らないし、録音物も聴いたことがないので、あれなんですが、もう少し慎重さ、そして演奏、音楽への敬意が表現されるベキではないかと思いました。
うちのような弱小サイトはいいのですが、オーディオで食べている人には、この本を認めないとやっていけないのかなぁ。思ったことを確固たる意思を持って言えない評論家が増えた結果が、今の評論の惨憺たる姿のもとにも思えますね。なんて、俺も偉そうなこと言ってるな。これ以上は自重します。
投稿者 黒川鍵司 : 2007年5月24日 20:23

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