CC > re:CC

« CC | メイン | iPodがね »

2007年5月26日

戯言

  • 誘われて北関東へ。森を抜け、山を望み、滝の気にふれ、海に靴を濡らす。一日でこれだけの経験を味わったのは久しぶり。「癒されましたか? 和みましたか?」とのことでしたが、私を最も癒してくれて、和ませてくれたのは、あなたが横にいてくれたことでしたよ。Tさん、本日はありがとうございました。

  • 詩とは言葉による闘争だと思う。定型詩、韻文の場合、その形式との戦いとなる。日本では定型詩というよりも、俳句や短歌を思い浮かべる方がわかりやすい。その、制限字数に、いかにして自分の心情をつぎ込むか、いかにして韻やその他技巧を盛り込むかという闘争である。この形式という敵が既に想定されているが故に定型詩は、ある程度の知識を身につければ作りやすいとさえ言える。とりあえず、五七五のリズムと季語を織り込めば、出来はどうであれ、俳句にはなる。しかし、俳句・短歌においても自由律というものがある、これは、そのリズムを崩し、季語すらも使用せずに、俳句・短歌として成り立たせなければならない。それゆえ、その作成の難易度は高くなる。散文詩と呼ばれるものも、同様に難易度は高い。それは言葉そのもの、日常語や、陳腐化された言い回しとの戦いになる。どういうわけか、散文詩は書きやすいものと思われているが、単に文章をぶつ切りにしたものを並べたのでは散文詩ではない。そのようなものを詩として提示するのはジュールダン氏の末裔となることを意味する。散文詩の例としては、コクトーの「恐るべき子どもたち」をまず挙げたい。この作品は単にストーリーを追うこともできるが、その言葉をみれば、全編が詩であると言える。また、アルチュール・ランボーが天才とされるのは、当時の一詩人が全身全霊をかけても成し遂げ得ない闘争を、こともなく勝ち抜け、その上、その結果をいとも簡単に捨て去ったが故だ。以上の意味で、彼女の書く散文は、まさに詩であると思う。あの言葉遣いの妙技は、ブルトンの宣言を思い起こさせる。悔しいが、僕には太刀打ちできない。

  • そしてBGMはE2-E4 25th AnniversaryからUb-Xへ。

投稿者 黒川鍵司 : 2007年5月26日 23:41

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.ashrization.com/x/admin/mt-tb.cgi/413

コメント

Tさんです。わは
わたしもとっても和まされて癒されましたよ。
ありがとうございます。
また遊んでくださいね!

投稿者 T : 2007年6月 6日 20:42

 あら! ご本人が!
 いやぁ、今も和まされてますよ。ふと、あなたのアヒル口が脳裏に浮かぶと、笑っちゃってね。思い出し笑いで周りから気持ち悪がられそうですよ(笑)。

投稿者 黒川鍵司 : 2007年6月 6日 23:42

コメントする