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2008年2月23日

オーディオと音楽鑑賞についての立場 − その5

 オーディオ再生においては、音色、空間表現、音調のバランスなどに、何かしらのシステムごとの付帯が存在する。これは機器の色づけ、オーディオが再生される空間などの結果であると言えるだろう。オーディオにおいて「色づけの全くないシステムが欲しい」という要求は良く耳にするが、これは不可能である。なぜなら、例え、色づけのない機器を作成したとしても、それは作成者の判断による「色づけのなさ」でしかなく、結果として、機器はそれぞれに個性をもつことになるからである。これは再生機器のみにおいてではない。録音機器にも個性は存在している。だから、どのように作成しようとも、完全な色づけのなさは実現できない。

 そして、機器の使い手の側にも、判断は存在する。どのような音楽ソースを選択し、どのような機器を選択し、どのようい使いこなすかは、使い手がもつ「基準」による判断の結果であるはずだ。この「基準」がどのように作り上げられるかといえば、経験と知識、オーディオ、音楽のみならず、様々、文化や生活における体験、経験、学習によって生み出される感性、そういったものの総和であるはずだ。五味康祐が言う「あなたの教養が鳴る」というのはこのような意味だと思っている。

 故に、この「基準」は個々人で異なっている。だから、ある人物にとって「リアル」な音が、別の人物にとっては「人工的」な音に感じられることがありえる。そして、この「基準」は上記のような総和であるから、それを全面的に他者が理解することはない。言われるままに機材を集めても、本人が満足を得られない場合が多いというのは、当然なことである。他者が、その人物の「基準」を完全に知りうることはないからだ。

 趣味というものは、それに熱心であればあるほど、自己の内面にある基準による選択を迫られる場面が多くなるのだ。趣味の実践者は、自分の基準に照らし合わせて、ある種の苦しみや悩みを感じながら、選択を重ね、自己の満足に向かうしかないのである。

 さて、このようなことを書くと、次のような質問をもらうことになるだろうか。

「オーディオ趣味は、単なる自己満足のための孤独な行為でしかないのですか?」

 この質問に対しては次のように答えたい。

 確かに判断というものは、個人が行うしかないものだが、その判断の基準を作り上げるための経験、体験、知識の獲得は個人のみで行えるものではなく、なにかしらの相互関係(もちろん人と人の場合のみではない)が必要となる。また、他者の基準を理解しようとする努力、もしくは他者の基準にふれる機会は、自己の基準を明確化するのに役立つ。他者の基準との差異によって、自己の基準が浮かび上がるからだ。故に真に孤独な行為であるという状況は成り立たない。

投稿者 黒川鍵司 : 2008年2月23日 10:02

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コメント

全部を自分自身で判断しなければいけないですが、そこが楽しくもあり、苦しくもありますね。
部屋の規模、予算、聴く音楽、etc。。。

またひとつ満足したらさらに欲が、、、とスパイラルになりやすいのも危険ですね^^;
自分の中で基準をしっかり持てるようになりたいものです。

投稿者 Lyn2 : 2008年3月 2日 00:17

 ただ単に音楽を聴いて安らぎたいというのであれば、同一ブランドで揃えて、それこそミニコンポでも十分な訳ですよね。なんで、わざわざ冒険して単体コンポーネントを組み合わせるのかといえば、なにかしら自分が求める音があるからということになるのですよね。そうなると、最終的には自分との対話になってしまうのですよね。

 次々とっていうのは「目的」ではなく「理想」を追う結果などだと思います。具体性をもった「目的」に対して、「理想」は抽象的で、例えそこに辿り着いても、「理想」自体が変化して、さらにハードルがあがってしまうというループ。陥らないようにするのは大変ですね。

投稿者 黒川鍵司 : 2008年3月 2日 22:18

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