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2009年3月11日
補遺:Celloのこと
あちらでいくつかコメントをいただき、前回の記事に言葉の足りない部分があることに気がつかされたので、いくつか補いたい。- VIOLAについて
前回の記事を読むと、Celloに比してVIOLAのアンプ群が劣るかのように読み取れるかもしれないが、そんなことはない。VIOLAのアンプ群も優秀である。ただCelloのそれらとは異なるということを述べたかっただけである。 - マーク・レヴィンソンについて
こちらについても同様である。人物としてのマーク・レヴィンソンとは無関係になっており、彼が在籍した時代とは音が違っているが、優秀なオーディオ・ブランドである。実際、先日、BLの新K2とLEVINSONの最上級アンプの組み合わせを聴き、すらばしさに感服させられた。 - 人物としてのマーク・レヴィンソンについて
正直言って、マーク・レヴィンソンという人物自体は好きなタイプの人間ではない。現状については、一種の見苦しさのようなものさえ感じてしまっている。しかし、彼の作品としてのアンプ類には確かに魅力があると思う。 - Ampzillaniについて
本文中でも述べたが、Celloとは外見、音とおもにまったく違う。Celloがフェミニンな中に強さを感じさせるのに対し、マスキュランな中に繊細さをみせるのがAmpzillaだと思う。結局、私が惹かれるものは、個性というものはもちろんだが、一見矛盾するような要素を含んでいて、その上で成り立っているものだ、と言うことなのだろう。 - ゲインについて
ENCORE 1MΩの機能にふれたとき、ゲインについて書き漏らしてしまった。アウトプットが外部への出力についてボリュームなのに対し、これはソース機器からの入力に対するボリュームである。単なるボリュームであるなら別にする必要は無いはずで、操作してみて気がついたのだが、ゲインをあげてアウトプットを下げると、空間的な広がりが出る。ふくよかになるという人もいるだろうし、ライブな音になるという人もいるだろう。逆にすれば、デッドになるわけだが、それゆえのストレートさも出てくる。どちらが良いという種類の問題ではなく、音楽ソースに合わせて、もしくは聴き手の好みによって調整してよい部分だと思う。
投稿者 黒川鍵司 : 2009年3月11日 20:05
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コメント
私としてはEncore 1MΩはあまり飾り気のない音なのかなと思っています。それゆえ入力ゲインを絞ると空間的には劣るのかなと(逆に上げると柔らかくなりますが、この辺はプリでなく上流の影響なのかなと思っています)。
まあ空間的に「劣る」という書き方をするのはアレかなとは思いますが、ゲインによる音の変化については全く同感ですし、だからこそソースに合わせて楽しむのが良いと思いますね。
投稿者 Riever : 2009年3月11日 21:01
おお! 先達からのコメントが。
飾り気のない=色付けが無い という意味だとしたら、う~ん、って感じですね。私の聴いたことのあるプリアンプの中ではかなり個性派だと思います。ソニーのパワーアンプとの組み合わせだと、違うのかな?
私の中ではAmbrosia2000と並ぶくらいに個性を感じています。音的に近いのはゴールドムンドかなぁ。いや、もちろんイコールではないんですが。
ちなみに、いままで聴いた中で一番色付けが無いと感じたのはハルクロですね。ダールジールも色づけという意味では少ない気がします。ボルダーもプリは色付けが少ないと思うのですが、パワーアンプの個性が出る気がしますね。
ゲインは面白いですね。今のところ20~17のあたりで落としどころを探っています。
投稿者 黒川鍵司 : 2009年3月11日 21:15
Celloは個性派ですか。
私は他のプリを繋いで、と言うことをやったことがないからあまり音について分からないというのはあると思いますので話半分程度に聞いていただけると。
ゲインを下げるとつまらない音になるのは、Celloにあまり味がないからかなと思ったのです。
私のベストポジションは17ですかね。17が一番しっくり来ます。15だと(それはそれで良い面もありますが)やはり聴いていてあまり面白くないなと(笑)
投稿者 Riever : 2009年3月11日 23:57
オーディオ機器には絶対値はないので、出来る限り沢山聴いて自分の中に基準を作るしかないのですよね。それが楽しみでもあり、苦しみでもあるわけですが。
で、ゲインの話なのですが、うちだとある種のジャズ、ネオサイケ、シューゲイザー系のアルバムで最低値である15にした方が、らしさがでました。なので、絞ることに意味がないわけではないと思います。使い分けて楽しめる部分を作ってくれたんだと思うわけです。
でも、それだけなのか? と思う部分があります。もし、ユーザに使い分けの手段を提示しただけだったら、なぜ基準点である「0」を設けて「+5」とか「-4」というようなメモリにしなかったのか。また、なぜわざわざLR別々に調整できるようにしたのか。そして、なぜ、セレクタやアウトプットボリュームと同格の扱いにしているのか。
ここで、私はノッティンガムのアナログプレイヤーのインサイドフォースキャンセラーのことを思い出すんです。普通、インサイドフォースキャンセラーには目盛りがついています。そして、針圧と同じだけの数値にセットするのです。しかし、ノッティンガムのそれには、目盛りがないのです。どういうことかというと「自分の耳で聴いて決めてください」ということなのです。たしかにインサイドフォースという微妙な力は、そのプレイヤーの設置状況、それどころかその場所の気候風土でも異なるかもしれません。だから、ユーザが自分で決めるというのは正しい調整方法でしょう。しかし、このことを裏返すとユーザに恐ろしいことを突きつけているとも言えます。「正解はある。しかし、それは状況で変わるから自分で見つけろ」
Encore 1MΩのゲインも同様な気がするのです。設置場所、つながれているソース機器、パワーアンプはユーザにより異なるはずです。また、部屋の音響特性も絶対に異なります。だから、正解はあってもそれは環境により異なるでしょう。
上のコメントで落としどころといったのはこれになるのです。そして、ゲインのつまみに触るたびに、このアンプが「正解はあるぞ、だから見つけろ」と言っているような気がしてしまうのです。まだまだ、使いこなすには至っていないと言うわけですね。
投稿者 黒川鍵司 : 2009年3月12日 22:35

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