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2008年7月 5日

ある雑誌からの連想

  • 現在の「靭猿」はこうである。野辺へ猟に出た大名と太郎冠者が、猿引に出会う。猿のよい毛並みを見て大名は、その皮を靭にかけたいからくれという。当然猿引は断る。五年か三年貸せというのでまた断る。大名は弓に矢をつがえ、猿引ともに射て取るとおどす。止むを得ず猿引は承知し、嘆きながら猿を殺そうと杖をふり上げると、猿は芸を命じられたかと思い、その杖を取って舟の櫓を押す真似をする。これを見た猿引は、猿ともども成敗されようとも猿を殺せないと泣く。この事を聞いた大名も貰い泣きをし、命を助ける。猿引は喜んで猿に礼をさせ、猿を舞わせようという。猿引のうたう猿歌(時代流派によって異なる)につれて猿が愛らしく踊る。大名は次第に猿の動作に浮かれて自分も踊り、めでたく掛声をかけて留める。
    別冊太陽 能(平凡社)88ページ

    大名のわがままをもって始まったコメディが、命を賭した緊迫にいたり、それがひたむきさによって涙と同情に緩み、めでたき団円に向かうという物語。何よりも素晴らしいのは、憎まれ役の大名をそのままにせず、クライマックスで観客が思いを込める対象としている事。まさに見習うべき構成。



  • 「ベルリン天使の詩」を能に翻案できないかと、以前から考えている。もちろんシテはダミエルで、前シテでは「善如烏」のような黒い姿で天使とし、後シテはちょっと派手な狩衣で、人間となった喜びをツレの龍女と舞う。ワキはもちろんカシエルで、後シテのめでたき舞を、黒の着流しに水衣のまま、うつつと幻の間たる橋掛りで見守る。なんてことだけは浮かぶのだけど。


  • 元々は翁と5本の能を演じ、その合間に狂言という1日がかりのものだったのが、今は静かな能の次に、コメディである狂言、そして良きにせよ、悪きにせよカタルシスをもたらす能という形で演じられている。先の「ベルリン天使の詩」の構成はそのままこれを踏襲しているように思えてならない。また、所謂受難劇を演じるにあたっても、合間にコメディを挿んだという。ここら辺のバランスというものは、古今東西を問わないものなのかもしれない。


  • 近江女(おうみおんな)伝越智作 観世銕之丞氏蔵 近江猿楽の女面というところからくる名だと考えられるが、能面が様式化されない前の形をとどめ、素朴で妖艶。観世流では「道成寺」の前シテに用いる。

    よりも
    小面(こおもて)伝越智作 観世銕之丞氏蔵 小面は代表的な女面で、処女の美しさ清純な明るさを特徴とするが、この面は憂いを含んでいる。裏に金剛十六代大夫久明の銘と金泥の花押がある。

    (双方とも同上書146ページ)
    こちらだな、目指すところは。

投稿者 黒川鍵司 : 21:22 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月 9日

夜想 第3号/特集#耽美

 全くもって今更だが感想を書こうと思う。

 今回は久々に「読む夜想」だと言えるのではなかろうか、前2号がビジュアル中心の構成だったのに対し、今回は「読む」、文字という意味でも、絵という意味でも「読む」ことに意味を感じられる内容となっている。グローデン男爵撮影のギリシャ神話を模した少年たちの写真から、イヨネスコの生きる人形としてのエヴァの写真に至る巻頭だけでも、雑誌1冊分の奥行きを感じさせてくれる。そして今号を「読む」ものとして決定づけているのは、中程で特集された三島由紀夫だろう。死してなお文士たる面目躍如といったところか。

 もちろん、今号にも、つめの甘いと思われる部分も無いではない。「美貌のシネマ」なる文章は単にそれ風のタイトルを並べ立てた体裁だし、嶽本野ばらの掌編は今号ではなく「ゴス」の特集で掲載されるべきだったろう。また、シジスモンディのインタビューは毎号掲載されているが、今号では特集との関係性が希薄に感じられる。

 ビジュアルな部分では全体としてのクオリティは高く、野波浩の写真は作品展に行けなかった事を悔やませるし、吉田良の撮影の人形も流石という具合だ。そんな中でも白眉といえるのが橘小夢の「地獄太夫」なる日本画。是非、現物にお目にかかりたい。

 今号は旧夜想ファンにも納得のいく号となっているように感じられた。果たしてこれは義理を果たしたという事だろうか? それとも今後の方向性なのだろうか? どちらにせよ、次号の展開にも期待したい。

投稿者 黒川鍵司 : 09:31 | コメント (2) | トラックバック

2006年5月24日

聖骸布血盟

 久々に通勤の車中で本を読んでみました。
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 トリノ大聖堂に襲撃を繰り返す舌のない男達。その目的とは? トリノに保管される聖骸布を襲った幾多の危機、そして、それがいかにして守り続けられたのか。なんて聞くとワクワクするのは、子供の頃から秘密結社だの、未解決事件だのに親しんできたためなのでしょう。

 上巻はテンポもまずまずで、裏側に見え隠れする結社や同盟、そして歴史の中で翻弄される聖骸布、そしてその聖骸布に翻弄される人々の姿が読者を惹きつけます。惹きつけてくれるのは良いのですが、状景描写や、人物描写についてはおざなりな傾向があるので、事前の知識や想像力で補わねばなりません。下巻になると場面の転換が妙に多くなり、ごちゃごちゃしてくるわりに、内容の密度が薄くなる傾向があります。密度不足を補い、スピード感を出すために場面転換を多用したのだと思いますが、逆効果に思えました。また、物語の途中でかなりネタバレし始めていて、ラストに明かされる事実のショックみたいなものがすっかり薄くなっています。それを登場人物達に降り掛かる不幸な事件で、補おうとしているのですが、上述の人物描写不足と、急ぎ足の展開のために不完全燃焼に終わっています。

 著者はこれが処女作とのことですので、上記の欠点については、これからに期待です。今回の作品については、聖骸布の歴史をフィクション(仮説?)を交えつつ、パノラマの様に見せてくれることが売りなのだと思います。サスペンスとしてはいまいちですが、この点では読む価値があると思います。車中で読む程度であればお薦め出来る作品です。

投稿者 黒川鍵司 : 00:56 | コメント (4) | トラックバック

2004年10月17日

復刊・夜想 第2号/特集#ドール

 復刊2号目。特集は「ドール」ということで、以前、「球体関節人形考」という文章も書いたし、それ以上に「夜想」には恩義を感じていて、発売当日(10/15)に購入しようと画策した。今の職場は新宿なので、近所で手に入って当然と高をくくっていた。
 まずは駅ビルの書店。ここは前回、「夜想」復刊フェアをやったところだ。あの時はバックナンバーもおかれていて、買い損ねていたベルメールの特集号も購入できた場所だ。あって当然と思ったのだが見つからず、店員さんに聞いても「ないですねぇ」といった具合。経営母体が変わったせいかもしれないな、他に行けばあるだろうと思い、東口の大型書店にまで足を伸ばすが、ここにもない。ここで昼休みは時間切れとなり、あとは終業後となった。
 定時でさっさと退社し、もう一軒行ってみるが、やはりない。「発売はされてるんですが、まだ、入荷してないんです」という店員さんの言葉に、ふと思い出した。15年位前、メジャーでない本は発売当日には店頭に並ばず、1ヶ月位してやっと入荷するなんてことがあった。書籍の流通の不思議さというか、不条理さというかに初めて気がついた出来事だった。今も状況は変わらない、いや、さらに悪化しているのかもしれない。しかし、この書店では奢霸都館の「ピエール・モリニエの世界」が手に入った。ここには一条の光があるかもしれない。
 それにしても。ここまで手に入らないと意地になってくる。なんとしても今日買おう。そこでフェアを開催しているという青山ブックセンター本店に向かうことにした。
 JR渋谷駅から向かったのだが、金曜日の駅前の込み合い方は凄まじく、ものの5分で疲れきってしまった。何度行っても嫌いになるばかりの街である。それでも何とか国連大学が見えてきて、目的の書店にたどり着き、やっと手に入った。一冊のためにここまでしたのは久々だ。それにしても、たいした距離ともおもえないのに、なぜここにはあって、新宿にはないのだろう。やはり不条理だ。中間卸の問題とはわかっているけど、やっぱり不条理だ。そんなことをぼんやりと考えながら、渋谷駅に戻る自殺行為を避け、地下鉄表参道駅から自宅に戻った。

 さて、内容だが、2号目にして、これが「夜想」ではなく「yaso」だということが明確化されたように思う。以前のような、硬質な、ときには晦渋な文章を中心とした書籍ではなく、写真と作者のインタビューをメーンとしたヴィジュアル誌、ちょうどサブカルチャー版の+81といった具合のものが、今の「yaso」である。前回、私が「インパクトが落ちた」と感じたのは、これのためかもしれない。「言語で考える」というダンディズムに浸っていた以前からのファン(もちろん私を含む)には、反感を持たれかねないつくりなのである。しかし、当然ながら「yaso」はノスタルジアであってはならず、今の読み手(多く読者は“ゴス”という領域にあるのだろう)に印象を与えるものでなくてはならない。その意味で、このつくりは正解ということなのだろう。
 掲載された人形で興味を惹かれたのは、フローリア・シジスモンディ、タデウシュ・カントル、四谷シモン、吉田良。ルイズ・ブルジョアについては人形ではなく彫刻と判断、やなぎみわと井桁裕子については、もう少し時間をかけて判断したいと思う。そのほかの人形については、その表情、とくに視線に媚のようなものを感じてしまう。ちょうど自分の心の病を書きつらねて、憐憫をさそう人物のウェブサイトのような媚だ。どうもそれが鼻について好きになれない。
 そんな話を、ある女性にしてみると「その媚が球体間接人形の要素になってるのかもしれない」という意見をもらい、なるほどと思った。私が人形にたいして持つ興味というのは、それそのもので完結、もしくは閉じているものが構成している世界を覗き見たいというものなのだろう。その意味で、独特なロマンティズムに満ちた空間で、人形そのものが動き回るクエイの世界はまったくもって理想的な興味の対象だ。それとは対照的に現代の球体間接人形は、それそのものが主体なのではなく、それを動作させる誰かが主体として存在しており、その主体の操作、参加を求めている。ゆえに、その表情に媚、という単語に問題があるとすれば、愛嬌とでもいうべきものが浮かんでいるのではないだろうか。球体間接というもの自体も、外部からの操作を要求しているとも考えることができる。それゆえ、あの表情は、その介入をさらに誘うものなのかもしれない。しかし、逆にあの表情を浮かべない球体間接人形には、それそのもの主体性が備わるようにも思える。それがあるのがベルメールの人形に思えてならない。
 とすると外部からの操作を求める今の球体間接人形の多くは、ベルメールの直系というよりも、天野可淡の影響下にあるように思える。
 
 これ、もう少しまとめて、まともな文章になったらサイトにアップしよう。

 とにかくも、これだけ考えさせてくれる雑誌は少なくなってしまった。そういう意味で今後も「yaso」には期待したい。

投稿者 黒川鍵司 : 22:45 | コメント (0) | トラックバック

2004年8月 8日

再読

A Better Design Webページ リ・デザインブック
A Better Design Webページ リ・デザインブック
山本 容子

 確か、近所の大きめの書店で買ったのだと思う。その頃の僕は、それなりの道具(ソフト、スキャナなど)はあるが、どうサイトをリニューアルしてよいのかわからず悩んでいた。そんな折、本書に出会い、Webデザインというものの一端に触れ、多少はまともなサイトが作れるようになったというわけだ。
 今となっては古くさく思える部分も多い。また、基本的にオーサリングソフトを使用したサイト作りの説明となっているので、正しいHTMLを身につけるという視点もない。しかし、サイト作成のステップやデザインの検討方法をさらりと教えてくれるという点で、本書は今も十分な力を持っていると言えよう。

 ということで今夜は、本書を再読いたします。

投稿者 黒川鍵司 : 20:31 | コメント (0) | トラックバック