CC > re:CC

2010年1月 3日

かなしみのクリスチアーネ―ある非行少女の告白




 以前から読みたいとは思っていたが、絶版。Amazonなどで買えることはわかっていたのだけど、どうも、その気にならず、年末、神田の古書店街に行った際、3冊500円のコーナーにあったためこれ幸いと購入。内容は事前に知っていたので、年始に読むのはどうかと思ったが、手持ち無沙汰もあって読了。

 内容をかいつまむとこうだ。

 半ば崩壊した家庭に育った12歳のクリスチアーネ・Fがハッシシ、LSD、ついにはヘロイン依存へと、あっという間に陥っていく。そして、ヘロイン代を稼ぐために盗み、売春に手を染め、その間にも周囲のヘロイン中毒者(フィクサー)たちは次々と死んでいき、幾度も"クリーン"になろうとしては、失敗を繰り返す。最終的には15歳のときにベルリンから、ハンブルクの片田舎へ隔離されることで、何とか中毒から脱する。しかし、本当の意味で足を洗えたのかどうかは不明なまま。

 そのままルー・リードの歌になりそうな物語だが、これはノンフィクションとされている。「されてる」としたのには、ちょっと理由がある。読んでいて、クリチアーネがあまりに頭が良すぎる気がしてならないのだ。彼女が、この著作の元となるインタビューを受けたのは、1978年で15歳のときだというから、幼いころのことも十分覚えているだろうけれど、あまりにもそれが鮮明すぎるきらいがある。また、全体を通して、都市を「悪」とし、自然を「善」とする視線が貫かれすぎている。子供のころであれば、「コンクリート」と「アスファルト」が「木々」と「土」に対比させられ、終わり近くでは、上述のように「ベルリン」と「ハンブルクの片田舎」が対比させられている。本書のこの一貫した二元論は、彼女の、というよりもインタビューアーであり、編者であるカイ・ヘルマンとホルスト・リークの思想がかなり反映しているのではないかと思える。

 そういったことを加味しても、本書のインパクトは今も大きい。クリスチアーネが、いわゆるソフトなドラッグから、恐ろしく短期間に最悪とされるヘロインに手を出すに至る描写は「ソフトなドラッグであれば開放するべき」という意見を打ち壊すだけの力を持っているように思える。ヘロイン断ちとその過程でもたらされる禁断症状、そして挫折はしつこく、くどいまでに繰り返され、それでも自身ではコントロール可能という意識があったというあたりは、薬物中毒の実情をあぶりだしているとも言えるだろう。また、売春にかかわる客たちの描写には吐き気を感じる真実味がある。

 と、まるで反ドラッグの教科書のように扱われうる要素が満載の本書だが、私自身はそこに惹かれたわけではない。本書にクリスチアーネという少女が色濃く現れているはずだという確信があった、というが購入の理由だ。理不尽な暴力を振るう父親を「よその父親にくらべて、ずば抜けてすばらしい」と信じ続けていた幼い頃の彼女、コンサートでのボウイの歌声に恍惚とする彼女、「天使のような顔をして、単純素朴な態度を見せる」少女を友人として大好きになってしまう彼女、マゾヒストの売春相手を鞭打ちながら、その身体を見るまいと目を逸らす彼女、致死量の注射から生還し、フラフラとトイレさまよい出た自分を受けとめてくれた二人の少年が同性愛者でよかったと安心する彼女。これらの姿は、セシュエーによって描かれた、あの統合失調のルネと同じく「少女なるもの」のアイコンとなりうるように思えてならない。

 本書を誰にでも薦められる本だという気はない。文庫にでもなっていればまだしも、上述のごとく絶版。そして内容は恐ろしく暗く、救いは気配程度にしか感じられない。読んでいて嫌気が差すし、惨めさに投げ出したくもなる。しかし、絶望的だからこそ、クリスチアーネの刹那的な輝きは光を増す。そういうものを味わってみたいというのなら、読んでみる価値はあるはずだ。

投稿者 黒川鍵司 : 23:39 | コメント (0) | トラックバック

2008年7月 5日

ある雑誌からの連想

  • 現在の「靭猿」はこうである。野辺へ猟に出た大名と太郎冠者が、猿引に出会う。猿のよい毛並みを見て大名は、その皮を靭にかけたいからくれという。当然猿引は断る。五年か三年貸せというのでまた断る。大名は弓に矢をつがえ、猿引ともに射て取るとおどす。止むを得ず猿引は承知し、嘆きながら猿を殺そうと杖をふり上げると、猿は芸を命じられたかと思い、その杖を取って舟の櫓を押す真似をする。これを見た猿引は、猿ともども成敗されようとも猿を殺せないと泣く。この事を聞いた大名も貰い泣きをし、命を助ける。猿引は喜んで猿に礼をさせ、猿を舞わせようという。猿引のうたう猿歌(時代流派によって異なる)につれて猿が愛らしく踊る。大名は次第に猿の動作に浮かれて自分も踊り、めでたく掛声をかけて留める。
    別冊太陽 能(平凡社)88ページ

    大名のわがままをもって始まったコメディが、命を賭した緊迫にいたり、それがひたむきさによって涙と同情に緩み、めでたき団円に向かうという物語。何よりも素晴らしいのは、憎まれ役の大名をそのままにせず、クライマックスで観客が思いを込める対象としている事。まさに見習うべき構成。



  • 「ベルリン天使の詩」を能に翻案できないかと、以前から考えている。もちろんシテはダミエルで、前シテでは「善如烏」のような黒い姿で天使とし、後シテはちょっと派手な狩衣で、人間となった喜びをツレの龍女と舞う。ワキはもちろんカシエルで、後シテのめでたき舞を、黒の着流しに水衣のまま、うつつと幻の間たる橋掛りで見守る。なんてことだけは浮かぶのだけど。


  • 元々は翁と5本の能を演じ、その合間に狂言という1日がかりのものだったのが、今は静かな能の次に、コメディである狂言、そして良きにせよ、悪きにせよカタルシスをもたらす能という形で演じられている。先の「ベルリン天使の詩」の構成はそのままこれを踏襲しているように思えてならない。また、所謂受難劇を演じるにあたっても、合間にコメディを挿んだという。ここら辺のバランスというものは、古今東西を問わないものなのかもしれない。


  • 近江女(おうみおんな)伝越智作 観世銕之丞氏蔵 近江猿楽の女面というところからくる名だと考えられるが、能面が様式化されない前の形をとどめ、素朴で妖艶。観世流では「道成寺」の前シテに用いる。

    よりも
    小面(こおもて)伝越智作 観世銕之丞氏蔵 小面は代表的な女面で、処女の美しさ清純な明るさを特徴とするが、この面は憂いを含んでいる。裏に金剛十六代大夫久明の銘と金泥の花押がある。

    (双方とも同上書146ページ)
    こちらだな、目指すところは。

投稿者 黒川鍵司 : 21:22 | コメント (0) | トラックバック

2007年5月16日

「新レコード演奏家論」感想

 先日述べた「かなり攻撃的なもの」である。あくまで私個人の感想であることを最初におことわりする。この著作に好印象をもっている人を否定する気もないし、菅野沖彦氏のファンを愚弄するつもりもない。

 これは「論」ではない。「論」とはある思考が、順序立てて説明され、ある体系をなしたものである。他者(読み手)に「論」を伝える場合、既に周知の事実、調査・実験の結果などを用いて、客観性をもたせ、その客観性に裏付けられた自説を展開して行く必要がある。これが正しく行われれば、例え対立する立場の他者に対しても、自説は秩序だった体系として伝わる。そして、優れた「論」は、ある程度の幅をもち、それに対立するものも包含し得る状態となる。

 振り返って本書を読むと、まず客観性の低さが目につく。本書168ページには「取材で接した日本全国の241名の真摯な愛好家との出会いが絶好のフィールドテストとなった」とあるが、このテストの純粋なローデータは本書のどこにも掲載されておらず、また、このテストでの対面環境、質問内容などの情報もない。241名という数字のみがあるだけで、なんら客観性のある資料は示されていない。また、次のような記述も目立つ。
「私はある席で、オーディオはそのうち古美術や骨董趣味のような世界になると言った覚えがある」(16ページ)
「私の記憶では、多分、終戦後間もない頃ではなかったと思われる」(25ページ)
「私の勝手な推測だが」(86ページ)
 記憶は本人に都合良く、それも無意識に改変されるし、まして単なる推論というものについては何も言うまでもない。「論」には客観的な事実が必要となるわけだが、上記三つの文からも伺えるように本書にはそのような視線はない。

 独善性も目立つ。例えば順序だてた根拠を示さずに「2チャンネル・ステレオこそが、擬似的にもっとも単純な形で立体感を伝送する方式」(46ページ)としているし、「興味がない」という理由だけで電子楽器による音楽や、ライン録音を取り上げないとしている(19ページ、140ページ)。これらは、マルチチャンネルの愛好家や、電子楽器を使用した音楽を聴く側からの本書の内容について受ける反論を、小賢しく前もって封じようとしているようにも思える。当然だが、このような態度は「論」において認められるものではない。「論」であるならば、むしろ、このような「敵」をどのように自らの体系に組み込むかが問題となってくる。対立する立場にある読み手を、味方に引き込もうとすることが「論」を他者につたえる重要な意味でもある訳だから。

 著者の独善性の根源は次ぎの文章に伺える。
「カントの言う音楽とは、通俗的で庶民的な音楽であったことが推測できるだろう。民謡や冠婚葬祭のために奏でられる踊りのための音楽のような......。だから、彼は音楽に悟性による秩序付けがないと考えたに違いない......。
 彼が、せめてバッハの世俗カンタータの一曲でも聴いていたとすれば......あるいは、マタイ受難曲を聴いていたら......と思わずにはいられない。そして、それでもなお、音楽には悟性の秩序づけがないから芸術ではないと彼が言い張るとしたら」(87ページ)
 ここに著者の態度が出ている。この文章を裏返せば筆者は「通俗的で庶民的な音楽」には芸術性がないと考えているのだ。このような態度については多少長くなるが伊福部昭の言葉をひいて説明する。
「なお、現代の音楽にあって、今までになかった他の一つの現象は、音楽がハイ・ブロウとロウ・ブロウの二つに画然と分離し、ミドル・ブロウを失ったことです。(中略)音楽は完全なハイ・ブロウとロウ・ブロウとに分かれ、民衆と音楽家が共に楽しみ得るミドル・ブロウの音楽が無くなったのです。街は、感傷と虚無と肉感しかない流行歌とジャズに支配され、一方現代の作家たちの演奏会は、民衆には全く共感のないいたずらに高踏的な作品でふさがれているのです。かつて、ヨハン・シトラウスのワルツは、その当初、多少の非難はあったにしても、貴族も、庶民も、また音楽家も、共にこれらから音楽的興味を汲み取ることができたのです。(中略)このような現象は、決して音楽に限ったわけではなく、他の芸術部門にもみられる否定し難い時代が持つ特色なのです。」 (「音楽入門」(全音楽譜出版社)136〜137ページ))
 この文章の原文が書かれたのは昭和26年であるため、ジャズの取り扱いが現代とは異なっている。いまの時代にあわせるならば「流行歌とロック」であろうか。
 さて、この文章に照らし合わせれば分かる通り、本書の著者は「ハイ・ブロウ」に属していることを声高に宣言していると言えるだろう。それゆえ「ロウ・ブロウ」に属するとされる電子楽器を利用した音楽、打ち込みなり、一般的なロックに対して無視、切り捨てを決め込んでいるわけである。この態度は、伊福部の著述通り、音楽だけに限られず、筆者のオーディオ機器評価にも発揮されている。
「本格オーディオと言える物はコンポーネン一揃い最低50万前後で、普通は100万円以上と考えた方がよい。」(156ページ)

 そして、本書で最も欺瞞的と感じられるのが98ページから103ページに渡ってチェリビダッケの言葉(出典は明らかにされていない)までもひいて「ステージ音楽とレコード音楽は別物」としているにもかかわらず、114ページから116ページにおいて、視覚情報、周囲の雑音がなく、すばらしい音楽をたった一人で独占できるからレコードが優位だとしている点である。独立した別物であれば優劣は問えない。優劣を問うには、その二者を同一の評価軸に置く必要がある。同一軸に置かれえるとすれば、まったくの別物とすることはできない。それなら、私は「素晴らしいホールのインテリアは雰囲気を盛り上げてくれるが、それが安っぽかったりしたら......。あるいは趣味の悪いホール周囲の光景は見ないほうがましである」(115ページ )とする著者と、ホコリっぽい舞台装置がフラグスタートがうたい始めたとたん壮麗な風景に変わったとコラムで書いているドナルド・キーンのどちらが音楽に対しての感受性が優れているかを問いたいものだ。

 以上、厳しいことしか書いていないが、本書には納得できる部分もないわけではない。しかし、「論」と銘打つには全く不足なのである。これが「菅野沖彦のオーディオ四方山話」だとか「菅野沖彦 録音と再生を語る」くらいの題名であったらならここまで文句を各必要はなかったろう。本書が「論」とされ、これを後ろだてとしてオーディオ論を語るようなことはされるべきではない。オーディオ芸術なるものが存在するとすれば、それに対する芸術論をおとしめる結果にしかならない。

 最後になるが、私としては「オーディオ演奏家」などというものは存在しないと思うし、存在したとしても、それに属したくはない。私がなにか「家」をつけた名称を作り出せと言われれば、クラシックのコンサートに足繁く通う人でもであっても、ロックのライブ好きでも、ジャズ喫茶の常連でも、オーディオに凝っている人でも等しく「音楽愛好家」とするだろう。そして、その音楽愛好家がどのようであるべきか問いに対しては、上述の伊福部の著書から次の言葉を借りる。
「音楽の鑑賞にあっても、作曲家の場合と同様に自己の見識の確立のために戦いが必然的なものとなるのです。自己の思考を労さずに、大勢の流れるところ、すなわち時流についたのでは、決して真の途は発見できないものなのです。
 ゲーテは『不遜な一面がなくては芸術家といわれぬ』と述べていますが、鑑賞することもまた立派な芸術であることを忘れたくないものです。」(「音楽入門」(全音楽譜出版社)155ページ))

投稿者 黒川鍵司 : 23:27 | コメント (6) | トラックバック

2006年10月 9日

夜想 第3号/特集#耽美

 全くもって今更だが感想を書こうと思う。

 今回は久々に「読む夜想」だと言えるのではなかろうか、前2号がビジュアル中心の構成だったのに対し、今回は「読む」、文字という意味でも、絵という意味でも「読む」ことに意味を感じられる内容となっている。グローデン男爵撮影のギリシャ神話を模した少年たちの写真から、イヨネスコの生きる人形としてのエヴァの写真に至る巻頭だけでも、雑誌1冊分の奥行きを感じさせてくれる。そして今号を「読む」ものとして決定づけているのは、中程で特集された三島由紀夫だろう。死してなお文士たる面目躍如といったところか。

 もちろん、今号にも、つめの甘いと思われる部分も無いではない。「美貌のシネマ」なる文章は単にそれ風のタイトルを並べ立てた体裁だし、嶽本野ばらの掌編は今号ではなく「ゴス」の特集で掲載されるべきだったろう。また、シジスモンディのインタビューは毎号掲載されているが、今号では特集との関係性が希薄に感じられる。

 ビジュアルな部分では全体としてのクオリティは高く、野波浩の写真は作品展に行けなかった事を悔やませるし、吉田良の撮影の人形も流石という具合だ。そんな中でも白眉といえるのが橘小夢の「地獄太夫」なる日本画。是非、現物にお目にかかりたい。

 今号は旧夜想ファンにも納得のいく号となっているように感じられた。果たしてこれは義理を果たしたという事だろうか? それとも今後の方向性なのだろうか? どちらにせよ、次号の展開にも期待したい。

投稿者 黒川鍵司 : 09:31 | コメント (2) | トラックバック

2006年5月24日

聖骸布血盟

 久々に通勤の車中で本を読んでみました。
 
 トリノ大聖堂に襲撃を繰り返す舌のない男達。その目的とは? トリノに保管される聖骸布を襲った幾多の危機、そして、それがいかにして守り続けられたのか。なんて聞くとワクワクするのは、子供の頃から秘密結社だの、未解決事件だのに親しんできたためなのでしょう。

 上巻はテンポもまずまずで、裏側に見え隠れする結社や同盟、そして歴史の中で翻弄される聖骸布、そしてその聖骸布に翻弄される人々の姿が読者を惹きつけます。惹きつけてくれるのは良いのですが、状景描写や、人物描写についてはおざなりな傾向があるので、事前の知識や想像力で補わねばなりません。下巻になると場面の転換が妙に多くなり、ごちゃごちゃしてくるわりに、内容の密度が薄くなる傾向があります。密度不足を補い、スピード感を出すために場面転換を多用したのだと思いますが、逆効果に思えました。また、物語の途中でかなりネタバレし始めていて、ラストに明かされる事実のショックみたいなものがすっかり薄くなっています。それを登場人物達に降り掛かる不幸な事件で、補おうとしているのですが、上述の人物描写不足と、急ぎ足の展開のために不完全燃焼に終わっています。

 著者はこれが処女作とのことですので、上記の欠点については、これからに期待です。今回の作品については、聖骸布の歴史をフィクション(仮説?)を交えつつ、パノラマの様に見せてくれることが売りなのだと思います。サスペンスとしてはいまいちですが、この点では読む価値があると思います。車中で読む程度であればお薦め出来る作品です。

投稿者 黒川鍵司 : 00:56 | コメント (4) | トラックバック

2004年10月17日

復刊・夜想 第2号/特集#ドール

 復刊2号目。特集は「ドール」ということで、以前、「球体関節人形考」という文章も書いたし、それ以上に「夜想」には恩義を感じていて、発売当日(10/15)に購入しようと画策した。今の職場は新宿なので、近所で手に入って当然と高をくくっていた。
 まずは駅ビルの書店。ここは前回、「夜想」復刊フェアをやったところだ。あの時はバックナンバーもおかれていて、買い損ねていたベルメールの特集号も購入できた場所だ。あって当然と思ったのだが見つからず、店員さんに聞いても「ないですねぇ」といった具合。経営母体が変わったせいかもしれないな、他に行けばあるだろうと思い、東口の大型書店にまで足を伸ばすが、ここにもない。ここで昼休みは時間切れとなり、あとは終業後となった。
 定時でさっさと退社し、もう一軒行ってみるが、やはりない。「発売はされてるんですが、まだ、入荷してないんです」という店員さんの言葉に、ふと思い出した。15年位前、メジャーでない本は発売当日には店頭に並ばず、1ヶ月位してやっと入荷するなんてことがあった。書籍の流通の不思議さというか、不条理さというかに初めて気がついた出来事だった。今も状況は変わらない、いや、さらに悪化しているのかもしれない。しかし、この書店では奢霸都館の「ピエール・モリニエの世界」が手に入った。ここには一条の光があるかもしれない。
 それにしても。ここまで手に入らないと意地になってくる。なんとしても今日買おう。そこでフェアを開催しているという青山ブックセンター本店に向かうことにした。
 JR渋谷駅から向かったのだが、金曜日の駅前の込み合い方は凄まじく、ものの5分で疲れきってしまった。何度行っても嫌いになるばかりの街である。それでも何とか国連大学が見えてきて、目的の書店にたどり着き、やっと手に入った。一冊のためにここまでしたのは久々だ。それにしても、たいした距離ともおもえないのに、なぜここにはあって、新宿にはないのだろう。やはり不条理だ。中間卸の問題とはわかっているけど、やっぱり不条理だ。そんなことをぼんやりと考えながら、渋谷駅に戻る自殺行為を避け、地下鉄表参道駅から自宅に戻った。

 さて、内容だが、2号目にして、これが「夜想」ではなく「yaso」だということが明確化されたように思う。以前のような、硬質な、ときには晦渋な文章を中心とした書籍ではなく、写真と作者のインタビューをメーンとしたヴィジュアル誌、ちょうどサブカルチャー版の+81といった具合のものが、今の「yaso」である。前回、私が「インパクトが落ちた」と感じたのは、これのためかもしれない。「言語で考える」というダンディズムに浸っていた以前からのファン(もちろん私を含む)には、反感を持たれかねないつくりなのである。しかし、当然ながら「yaso」はノスタルジアであってはならず、今の読み手(多く読者は"ゴス"という領域にあるのだろう)に印象を与えるものでなくてはならない。その意味で、このつくりは正解ということなのだろう。
 掲載された人形で興味を惹かれたのは、フローリア・シジスモンディ、タデウシュ・カントル、四谷シモン、吉田良。ルイズ・ブルジョアについては人形ではなく彫刻と判断、やなぎみわと井桁裕子については、もう少し時間をかけて判断したいと思う。そのほかの人形については、その表情、とくに視線に媚のようなものを感じてしまう。ちょうど自分の心の病を書きつらねて、憐憫をさそう人物のウェブサイトのような媚だ。どうもそれが鼻について好きになれない。
 そんな話を、ある女性にしてみると「その媚が球体間接人形の要素になってるのかもしれない」という意見をもらい、なるほどと思った。私が人形にたいして持つ興味というのは、それそのもので完結、もしくは閉じているものが構成している世界を覗き見たいというものなのだろう。その意味で、独特なロマンティズムに満ちた空間で、人形そのものが動き回るクエイの世界はまったくもって理想的な興味の対象だ。それとは対照的に現代の球体間接人形は、それそのものが主体なのではなく、それを動作させる誰かが主体として存在しており、その主体の操作、参加を求めている。ゆえに、その表情に媚、という単語に問題があるとすれば、愛嬌とでもいうべきものが浮かんでいるのではないだろうか。球体間接というもの自体も、外部からの操作を要求しているとも考えることができる。それゆえ、あの表情は、その介入をさらに誘うものなのかもしれない。しかし、逆にあの表情を浮かべない球体間接人形には、それそのもの主体性が備わるようにも思える。それがあるのがベルメールの人形に思えてならない。
 とすると外部からの操作を求める今の球体間接人形の多くは、ベルメールの直系というよりも、天野可淡の影響下にあるように思える。
 
 これ、もう少しまとめて、まともな文章になったらサイトにアップしよう。

 とにかくも、これだけ考えさせてくれる雑誌は少なくなってしまった。そういう意味で今後も「yaso」には期待したい。

投稿者 黒川鍵司 : 22:45 | コメント (0) | トラックバック

2004年8月 8日

再読

A Better Design Webページ リ・デザインブック
A Better Design Webページ リ・デザインブック
山本 容子

 確か、近所の大きめの書店で買ったのだと思う。その頃の僕は、それなりの道具(ソフト、スキャナなど)はあるが、どうサイトをリニューアルしてよいのかわからず悩んでいた。そんな折、本書に出会い、Webデザインというものの一端に触れ、多少はまともなサイトが作れるようになったというわけだ。
 今となっては古くさく思える部分も多い。また、基本的にオーサリングソフトを使用したサイト作りの説明となっているので、正しいHTMLを身につけるという視点もない。しかし、サイト作成のステップやデザインの検討方法をさらりと教えてくれるという点で、本書は今も十分な力を持っていると言えよう。

 ということで今夜は、本書を再読いたします。

投稿者 黒川鍵司 : 20:31 | コメント (0) | トラックバック